マルプー優太と時々クラシック

還暦過ぎてはじめて犬(♂マルプー2015年元日生まれ)と暮らしはじめました。大好きなクラシックの与太話も

優太は切ないね? クラ与太 ドヴォルザーク スラブ舞曲 作品72-2

優太です。

昨晩、珍しくジージはテレビ見てました。

普通は優太をおねんねさせて

書斎でCD聴いているのですが、

珍しく、優太とTV見てました。

「らららクラシック」とか言う番組

ジージがファンの

加羽沢美濃さんとか出ていて

優太のことそっちのけで

夢中で見てました。

ドヴォルザークのスラブ舞曲とか言う

とても切ない曲何だそうです。

でも優太にとっては、

かまってもらえないことが

とっても切ないです。

 

今朝優太地方はお散歩日和なので

ふるさと農道、ロング散歩行きました。

チョコちゃん仲良く歩きました。

楽しかったでしゅ。

帰ってきたらバーバが居たけど

遊んでもらえなかったでしゅ。

切ないでしゅね。

チョコちゃん

ママさんとお散歩できるのに

切ないです。

 

今日のクラ与太は、
A.ドヴォルザーク スラブ舞曲ホ短調 作品72-2


ドヴォルザークは1875年にオーストリア帝国の奨学金の審査で認められ、支給を受けて作曲活動に専念できるようになった。その審査員のブラームスとハンスリックにその才能を評価され支援を受けることとなった。ブラームスの「ハンガリア舞曲集」が大ヒットをしていて、その出版社ジムロック社に紹介されて、8曲からなるチェコ、ボヘミア地方の舞曲フリント、ソウセッカーなどを参考に創作しスラブ舞曲集をピアノ連弾曲として1878年作曲し、同社から作品46として出版され、期待以上とヒット作品となった。直ちに管弦楽編曲に着手し、出版され好評得て世界中のオーケストラのプログラムに取り上げられ、ピアノ連弾版の楽譜はされに売れた。ジムロックは優先出版権をたてに管弦楽版の出版を渋ったり、買い取り契約のためもあって300マルクと十分な対価を支払うことはなかったようだ。が、それでも経済的には安定することになった。ブラームスのハンガリア舞曲集が、舞曲そのものを引用で構成したのに対して、ドヴォルザークは自作することに拘ったのも特徴である。ヒットに気を良くしたジムロックは早速、第2集の作曲を要望したが、ヒットに自信をもったドヴォルザークは交響曲など大作に取り込むことを優先したこともあり、1集の収入に不満を持って事もあり、8年間も作曲に取りかかることはなかった。1886年6月になって、1集と同じ8曲からなるピアノ連弾のスラブ舞曲第2集作品72を作曲し、同年11月から翌年1月に管弦楽編曲を行い、1月6日に1,2,7番を自らの指揮で初演した・同年の内に全曲出版された。流石にジムロックもこの作品集には3000マルクと1集に比して10倍の支払いをした。第2集はロシアやウクライナ、ポーラン、クロアチアなどスラブ全域から広く舞曲を参考にしたのも特徴となり、よりキャッチーなメロディに恵まれ1集以上に親しまれることとなった。その2集の中でもとりわけ親しまれ、単独で取り上げられる事も多いのが第2曲ホ短調 アレグレット・グラツィオーソ 8分の三拍子です。冒頭の♯のついた旋律的短音階の切なくメランコリックな旋律は一度聴いたら耳に残ります。悲哀に満ちた短調(マイナー)に憧れや望みを感じる長調(メジャー)が適度に行き交い心の襞に染みていきます。がドヴォルザークは度々取り入れていた舞曲ドッムカに基づいて、そのリズムは心地よく癒します。前年作曲された交響曲7番の3楽章や、1889年に書かれた8番の3楽章とともに稀代のメロディーメーカー、ドヴォルザークの作品の中でも白眉の旋律と言えると思います。この2曲の交響曲は芸術性と大衆性が高い次元で達成した数少ない作品です。
お奨めは本来チェコ系の演奏者による録音をあげるのが本道でしょうが、今回は変化球です。ニコラス・アーノンクール指揮、COE(ヨーロッパ室内管弦楽団)。ピリオド奏法の元祖でもあるアーノンクールは余分な「民族的土俗臭」を取り除くことで音楽本来の魅力を引きだしています。透明感ある繊細なCOEの音色も相応しいものです

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