優太が釣れた? クラ与太 ショスタコーヴィチ ピアノ五重奏曲ト短調
優太地方もこのところ
毎日夏日が続いています。
日中はお散歩行けないので
暗くなって涼しくなってから
それでも短時間15分間
2カ所の水場を回っても
暑くて舌だしMAXです。
多少は違うのでしょうか?
汗書いた服もはやく脱ぎたいのでしょうか?
脚をぬいてほぼ脱いだのですが、
服をおもちゃにして、
カミカミはじめました。
そこでバーバが服を取ると
優太はくわえて離しません。
せめてもの抵抗。
結果優太は釣り上げられました。
一晩ぐっすり寝たら
優太は前の晩のバトルはすっかり忘れて
ご機嫌です。
お留守番は
ソファーの上から
部屋の隅から隅を監視するつもりです。
でも舌出しなので
なにか企んでいるのかも知れませんね。
今日のクラ与太は20世紀最高の作曲者の名曲。一見言うことを聞いているようでなんと従った振りしながらも、本音で表現している作品です。
ドミートリィ・ショスタコーヴィッチ
ピアノ五重奏曲ト短調 作品57
ショスタコーヴィッチが34歳の1940年に作曲した独奏ピアノと弦楽四重奏のための室内楽曲。当時当局の意向にそった曲を書くことなくいた彼に1936年の歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に対してソ連共産党中央委員会機関誌『プラウダ』の社説でスターリンの意向を受けて社会主義的リアリズムを欠くブルジョワ・形式的音楽として糾弾された所謂「プラウダ批判」は1937年作曲の交響曲5番によって名誉を回復した時期に書かれている。プラウダ批判に対する体制迎合的自主規制のある作品という指摘もあり、1941年のスターリン賞を受賞していますが、古典的な均整のとれた構成と叙情的な旋律で人間味溢れる感動的な紛れもない名曲です。5つの楽章から成り、バロック時代の組曲風に表題が付けられています。第1楽章「前奏曲」ピアノソロが心に残るレントでト短調の強奏でト短調の和音で開始され、上方スケールに耳に残ります。ラフマニノフを思わせる哀愁ある音楽が展開されます。彼の傑作交響曲5番を思わせるフレーズ垣間見えます。。冒頭の主題がピアノと弦で扱われ切れ目無く次の第2楽章「フーガ」に入れいます。弱音器付きのヴァイオリンに静謐な自然短調の主題により展開されるフーガです。ピアノがまるでコントラバスのピチカートのような伴奏ににのってリリカル流麗な主題がヴィオリンで唱われます。第1楽章の回想なども現れ内容の濃い音楽です。 第3楽章「スケルツォ」輝く生命力に溢れた高揚感の感じられる諧謔感のある楽章です。 第4楽章「間奏曲」 チェロのピチカートにのってヴァイオリンが唱われる哀感きわまりない珠玉の旋律にはつい聴き惚れます。ただラフマニノフの様な甘味さだけでなく血が流れている生命観が感じれるます。この辺りがショスタコーヴィチ音楽の魅力の肝だと私は思っております。この楽章もアタッカで続けて第5楽章に進みます。「フィナーレ」は幸福感が感じられます。1楽書の回顧などもきっちり行いながら肯定的に音楽が進みます。魅惑的な弦のポルタメントにピアノがフィナーレの主題を断片的に奏で静かに終わります。屈曲した感性がネチネチ進むのもショスタコーヴィチの音楽の魅力だと思っている方には肩すかしをくった気持ちになるかも知れませんが。ストレートに音楽と対話できる素晴らしい作品です。残された音楽の質と深さそしてカテゴリーの広さから言ってもベートーヴェンと対峙出来る作曲家はショスタコーヴィチだと私は思っています。その音楽の本質に触れるには最適の作品です。
今回は私のチョイスは敢えて指摘しません。リヒテルとボロディン弦楽四重奏団。レオンスカヤと同じボロディン弦楽四重奏団の演奏。どちらも素晴らしい名演です。ただ聴いた後作品よりもそれぞれのピアニストの素晴らしさだけが記憶に残ってしまいます。この曲は各演奏者が音楽を作っていく室内楽作品ではなく、ピアノと弦楽四重奏だけで描いた公共的作品だと思っています。そのため敢えて言えば素晴らしい演奏過ぎると思っています。そこでお奨めは ピアノがイタマール・ゴラン、ヴィオリンがジュリアン・ラシーンとジェニー・ジャンセン、ヴィオラ ユーリ・バシュメットでチェロ、ミッシャー・マイスキー。名手が技量を出すのではなくシンフォニックに音楽を描き出していて魅力的です。2008年の録音です。